J 「合楽理念の実験実証。朝、目覚めの喜び。」

x昭和五十七年二月二十八日 朝の御理解
御理解 第七十一節 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをし           て帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげは           わがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけ           にはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来           ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをして           おけ。」


 信心の稽古という事は、神様に心を向ける稽古でもあるのです。ですから、御祈念をおろそかにしては出来ません。いわゆる、芯からの御祈念、為には、まあ、仏教でいやぁお経文、やはり金光教でいやぁ過去においては天津祝詞とか大祓いとか祖先賛詞とかを奉上致しました。
 現在では又祈念の言葉がでけとりますから、これは私の母の親達、私にとっては、爺、婆ですけども、百姓しとりましたが、夫婦で百姓しとりました。叔父が朝鮮の方へ行とりましたから、まあ、浮羽郡の麦生という所で、本当にあの年寄り夫婦が、まあぼつぼつ田んぼをしておりました。もう、どんなに田植えの忙しい、取り入れの忙しいという時でも、私共手伝いに行っとりましたからね。
 もう、夜などは長々とお経文を夫婦であげてそして寝んでおりました。朝は孫が必ず、いわゆる御仏飯のお供えを致します。お花、もう、わざわざ仏様にあげるだけの花畑というのがすぐそばに、畑にございました。いろいろな四季折々の花が咲くように、仏様の花に不自由する事がないようにして、近所の信心友達の家にまであげておったのを記憶しておりますけれども御仏飯なんかでも、もう、簡単な事じゃないんですよね。小さい鍋で炊いてそしてこう何か竹の形のような丁度押し出して寿司みたいなのをしてから、もう、それこそ、もう、毎日行のようにそれを私共は見て来ておりますが、もう、確かにそういう神様へ向ける奉仕の姿とか又は、神様へ心からなる御祈念というものが私は、先ず信心の第一歩だと思いますね。
 朝参りしよるけんもう、御祈念はいらんちいう事はないです お家で本当に、例えば、お道の信心でいうならば、お神様の前にこう、お供え物がしてあったり、お榊が生き生きと、水々しいお榊が上がっておったりね。御祈念の時には明々とロ-ソクの光が燃えておったり、ね、それこそ、一家をあげて特に夜の御祈念などには一家中でね、いうならば、仏教でいうならお経文ですけれども、唱え言葉の繰り返し繰り返しもうそれが、芯から出来る事が喜ばしい、楽しいという事になるところから私は、信心の深い喜びというものは頂けると思うですね。
 そりゃ、なるほど四神様のお言葉の中に、信心せいというとすぐ拝みだしますわいとおっしゃるところがありますね。まあ、お道の信心では話を聞いて助かる道だから話をいわゆる、教えを実験実証していけ。合楽でもそれをやっぱ芯に持つ、ね。
 合楽理念のマスタ-そして合楽理念の実験実証と、けれども、又、その根本になるものは神様に向かう心です。その稽古です。はじめの間は、まあ、これは昔でいうならば、もう私共、大祓い一巻の時代から五巻の時代十巻の時代、もう、いつまでもいつまでもあの御神前から立たれんような気持ちがして、もう、限りなしに何巻あげたかわからんようにして、一生懸命大祓い奏上いたしましたもんです。もう本当に心がいうならば、清まりに清まるというか、とにかく有り難い心が出来る。その有り難い心が教えを行ずる。でないと私は、本当の実証が生まれてこないと思う。
 どうでしょうか皆さん。朝晩の御祈念やら、お勤めやら御神前のその今申しますねお榊の事やらお明かりの事やらお供えの事やら出来ておるでしょうか。熱心に信心が出来とるというても、お神様はいつ掃除したやらわからんごとしとる。お榊は枯れとるといったような事で、いかに熱心に合楽に参って来ても、それでは私は駄目だと思うね。信心とは拝む事だというふうに、お互いが観念しとりますから、四神様は拝みだす事だけではいけない。教えを守る事ぞと、ね。
 病気治しや災難よけの神様ではない。心なおしの神じゃと、まあ、仰せられてありますけども、やはり病気も治れば災難もよけられる、ね。そういう私は、御祈念がね神様へ向かうその心というものがもう、有り難うなってくる。楽しうなってくるというところから朝参りであるね。
 只、朝参りだけしとけばよいという事じゃない、ね。教えを只頂いとるだけ、いわゆるその行ずるに致しましても今いうように、神様に向かう事が有り難いのである、楽しいのであるといところが先ず基本に出来てからの教えであり、又、教えを行ずる喜びである。ここに生まれてくる実験であり実証であるね。
 まあ、次にはやはり祈る事、御祈念をする、御願いをする事、御礼を申しあげる事又はお詫びをする事。まあ私は願いが第一だと思いますね。ほりゃ、御礼が第一、御詫びが第一、という人もありますけれども、やはり私共は願いが第一のように思う。
 その勿論、願いも只、我情我欲だけの願いではありませんけれども、やはり、私共は何というても神様の、いわば御守護を、信心しよりゃお守り下さってあるのですね 信心すればであるけれども、やっぱり願わずにはおられない。
 r一番最後の私の方の宅の方での御祈念は、もう、とにかくね、合楽のこれだけの沢山の信奉者の事を願います事は、今夜もどうぞ皆が安眠のおかげを頂くという事、火難、盗難、水難、又は交通難、難儀という難儀の中からね、御守護を受けて、どうぞおかげを頂きますよに明日は又有り難い目覚ましが出来ますように・・・。これが最後の御祈念です。
 ですからあの、勿論、その中には最近私は皆さんに申しておりますけども、とにかく、朝の目覚ましが有り難う、楽しうならにゃ駄目です。一日を有り難く楽しうする為にはどうしても、朝の時間の有り難さ、だから、願わにゃいかんです、ね。
 気持ちよい有り難い目覚ましのおかげを頂きますように、ああ、眠たいけれども、というようなものじゃなくてね、有り難い目覚ましのおかげを願わにゃいかんです。 願って寝むからやっぱ、目が覚めたら、今日も結構な目覚ましのおかげを頂いて、お生かしの今日もおかげを頂いとるという事が、もう、起きて枕に向かって、こう御礼を申しあげなん時にはその事が一番に、又、昨夜御願いして寝んだ、火難、盗難、水難、様々な難儀の中からというその難儀がおかげで今日もね、もう本当にこう当たり前のような事の中に平穏無事である事の御礼を心から申しあげる。
 私は信心の稽古のまあ、今申しますように、拝む事から、祈りの第一歩というのはそんな事だと思うです。只、頼むだけ、願うだけじゃない。頼んだら、なら、今日ね結構な目覚ましのおかげを頂いたという事をね、それこそ、心の底から御礼を申し上げるというような御祈念ですね。それから、又、今日一日の事の願いもありゃ、ね、特別の御祈念もありますけれども、ここの願いとかいう、まあ、御礼とか御詫びとかいうのは、これは日頃教えを頂いとかんと、いつまで経っても、只、我情我欲のつっぱった、願っても願い成就にはならんような願いをしておったんではつまりませんもんね。そこに教えがあるんです。
 御願いをする、ね。商売繁昌なら商売繁昌の願いをする。病気平癒の願いをする、為には、ね、なら、どういう教えが身についてなければならないかというのがそこからなんです。そして、ははあ、これは御願いの、いうならば、筋道が大分違うなあという事やらいろいろ気づかせて頂く。それが私は信心の稽古だと思います。
 只、がむしゃらにお願いするというように、ね、どうぞ、どうぞという事だけが、いわば願いじゃない、ね。そういう私、あのう、ここには信心の稽古にくるところとおっしゃるが、ね、そういうような事を稽古する。そして、なら、皆さんが今日は私は、お家の神様はどげんなっとるじゃろかと。朝晩の御祈念はどうなっとるだろか、ね。夜の御祈念なんかは本当に、心ゆくまで神様への御礼の御祈念がでけておるだろうか。これは、思いますのに私共のその、まあ、申します、母の里の、爺、婆達のまあ、生き方というものがです、もう、どんなに忙しかっても、百姓ですからどんなにいうならば取り上げねっけのよな、身体が疲れて切っておる時であっても、お風呂から上がったら夫婦の者が御仏前に座って、もう、それこそ長々とお経文を上げてしか寝まなかった。そういう中から私は、神様へ向かう心、神様が喜んで下さる心が先ず出来る。その喜んで下さるような心で願うのである。頼むのである。御礼を申し上げるのである。ね、
 皆さん今日はなかなか、いわゆる、信心の稽古というがその稽古の初歩のところがでけずして、どんなに巧者になったところでたいした事ないと思うです。
 なるほど、金光教ではお取次を頂いておかげを頂く、という手立てがありますからね、家で念入れて拝まんでも神様に向かわんでもおかげを頂きますけれども、それでは、いわゆる、本当の、いうならば信心の喜びというもの、おかげの喜びはわかっても信心の喜びは、わからないと思う。その信心の喜びの心で願うのであり、頼むのである、ね。ひとつ、早速、出来ておる人はいよいよ念が入っていかなきゃなりませんし。昨日でしたか、吉井の熊谷さんがお届けしてましたが、ね、以前は大祓いの時には、大祓い何十巻、たまにはやっぱきつい。今夜は何か少し御無礼しょうかというような時もあったけれども、最近では、それが有り難うなり嬉しうなってね、おかげを頂いとるとこう言われる、ね。
 嬉しうなってくるという信心は、神様へ心から向かう心が生まれた時だと思いますよ。お願いしとったら、おかげ頂いた時の喜びというのではなくて、心を心から神様へ向ける、その手立てが、ね。
 御神前の、まあ、お榊のお水を替える事でもあろうお供え物の事でもあろう、掃除をする事でもあろう、そして前に座って、それこそ、まあ、御神前から離れたくないような、いうなら、心の状態というものが、ね、大祓いの五巻も十巻も上げておるともう、立とうごとないように有り難うなるもんですよ。そういう体験、そういう心、それが、私、信心の第一歩だと思うです、ね。そこから、朝参りでもあればお願いでもある、お取次を頂くという事でもあるのです。
 合楽の場合は、まあ、四神様の御教えではないですけれども、拝みだすという事よりも、ね、話しを聞いて、いわゆる合楽理念のマスタ-であり、実験であり実証という事を芯に説きますから、どうもそういうところがおろそかになっておるようなむきもあるように思います。
 今日は永瀬さんのお宅で恒例の宅祭りがございます。二、三日前は大和さんところのお祭りでしたが本当に、宅祭りでもなさるお宅の御神前に出ますとね、とにかく、こう、何ちいうかね、ま、手応えというでしょうか、神様が生き生きしてござるですね。神様が何か水々しいものを下さるのです。ね、宅の神様でいわば、“おいさみ”が頂けない位な事では私は、神様は枯れ細ってござると言うていいです。ね、
 神様がいうならば、生き絶え絶えのような感じで生き生きとしたおかげを頂けるはずないです。神様が生き生きとして見える。ね、
 良い事、悪い事につけピシピシ!とこうおいさみの一つでも頂けるような私は、神様にさせて頂く為には、こちらの心が生き生きとしなければならない。
 為に、なら、御神前に向かう。まあ、いうならば、姿勢というか、構えというかねその神様への奉仕そのものが楽しうなり有り難うなりというところから日参であり、教聴であり実験実証だというふうに思いますね。
                  どうぞ。